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平安時代後期から鎌倉時代までの土地制度は荘園を取り巻く人名や役職名が命

平安時代後期から鎌倉時代までの土地制度は荘園を取り巻く人名や役職名が命

平安時代から鎌倉時代までの土地制度は荘園が中心



別の記事で奈良時代から平安時代前期までの土地制度の変遷を解説しました。

公地公民制が墾田永年私財法によって崩壊して有力な貴族や寺院が土地を所有するようになり、平安時代前期には税の徴収すらままなならなくなってしまいました。

今回はその続き、平安時代後期から鎌倉時代までの土地制度を解説します。

平安時代後期の土地制度



国司と田堵



有力な貴族や寺院が膨大な土地を所有し、多額の賄賂を役人に渡して免税を受けるようになりました。税の徴収が出来なければ国家の運営もままなりません。

ここで政府は方針を変え、公地公民制のように中央政府がすべての土地を管理するのではなく、各地に国司という役人を置いて彼らに国を治めさせました。

奈良時代は民に無制限で開墾を許したことで失敗したので、国司は田堵と呼ばれる有力農民だけに土地の耕作を請け負わせました。国司と協力して土地を広げた田堵は大名田堵といいます。

平安時代末期



開発領主と在庁官人



平安時代末期になると大名田堵は盛んに土地を開墾し、開発領主と呼ばれるようになりました。力をつけた開発領主の中には発言力を強めて政界に進出した者もおり、彼らのことは在庁官人と言います。

センターの正誤問題で出題されやすいのが、国司と在庁官人を入れ替えた問題。国司は中央政府から任命された役人、在庁官人は地方の有力農民の成り上がりです。この違いは頭に入れておきましょう。

延久の荘園整理令



中央政府が国司を置いて地方支配を強化しようとする一方で、平安時代前期から寄進地系荘園は増え続けていました。

ここで荘園の意味を再確認しておきましょう。荘園は天皇以外の者が所有する土地のことでしたね。

後三条天皇はこの荘園の増加が天皇の所有する公領を圧迫していると見て、1069年に延久の荘園整理令を出しました。

延久の荘園整理令は、地方の荘園を国司任せにするのではなく、記録荘園券契所を設けてそこで荘園が基準に合ったものであるかをチェックするというもの。藤原家などの超有力貴族の荘園も例外ではなく、一定の成果をあげました。

しかし後三条天皇に続く3上皇の院政の時代でまた荘園は拡大します。結果として、奈良時代同様多くの荘園を抱えたまま平安時代は終わりを迎え、時代は鎌倉時代へ突入します。

鎌倉時代の土地制度



守護地頭



平氏滅亡後、源頼朝の強大化を恐れた後白河法皇は義経に頼朝追討を命じますが、失敗に終わります。

勝利した頼朝の後白河法皇に迫り、諸国に守護、荘園に地頭を置く権利を得ます。中央政府の国司を置く権利が、頼朝一人の手に渡ってしまったというわけですね。

頼朝はのちに守護地頭の権利ではなく、米の徴収や在庁官人の支配権なども得ます。日本全土を頼朝が支配するようになりました。

土地制度に直接関係があるのは地頭ですが、守護についても見ておきましょう。守護と地頭の説明を入れ替えた問題がよく出題されます。

守護は原則各地に1人置かれ、大犯三カ条を任務としました。京都の皇居を警護する(という名目上で天皇らが謀反を起こさないか監視する)ことと、殺害人の逮捕、そして謀反人の逮捕が大犯三カ条です。

ちなみに守護は主に東国出身の御家人が任命されました。関西出身の御家人だと実は京都天皇が送り込んだスパイなんてことがあるかも知れないので、京都と関わりが薄い東国の御家人が選ばれたんですね。

地頭請所と下地中分



鎌倉時代に力をつけた地頭の武士たちは自らの領地を広げようと、各土地の領主としばしば紛争を起こすようになりました。承久の乱後には紛争は増加の一途をたどります。

紛争解決のために、土地を所有する領主は自分の土地を地頭に預ける代わりに一定の年貢納入をさせるという、地頭請所という手段が取られました。

また他の解決法で有名なのが、紛争地を仲良くふたつに分けて和解するという下地中分。このふたつの解決法の違いは押さえておきましょう。